コリント第一3章

3:1 兄弟たち。私はあなたがたに、御霊に属する人に対するようには語ることができずに、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように語りました。

 御霊に属する人は、キリストにある成人です。それは、肉に属さない意味で記されています。御霊によって歩む人のことです。コリントの人たちは、肉に属する人で、肉によって歩んでいました。それは、キリストにある幼子です。彼らは、キリストを信じ、キリストのものとされていますが、御霊によって歩むことができていない人なのです。これは、年齢のことではなく、霊的状態のことです。

3:2 私はあなたがたには乳を飲ませ、固い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。

 パウロは、コリントの人たちには、固い食物を与えませんでした。無理だったからです。肉を捨てて、あるいは肉を殺して歩むように教えても、彼らは、肉の欲を捨てることができないのです。それで、そのようなことを言っても無理なので、そのことには触れず、彼らが受け入れことができるような教えを語ったのです。しかし、残念なことに、今でもまだ無理なのです。いつまでも、肉のままに歩むことをしていました。

 そのような教えは、その人たちにとってはまだ無理なのです。示されているにも関わらず、それを信仰によって受け入れることができないのです。御言葉を受け入れて歩めるかどうかは、その人の霊的状態に依存するのです。信仰を持って聞く人は、より多くのものを与えられます。しかし、信仰によって受け入れることをしない人は、持っていると思っているものでも取り上げられるのです。自分は、聖書を信じて歩んでいるし、教えられていると思っていても、何も持たない状態になるのです。そのことさえ気付けないのです。

 コリントの社会は、欲望に溢れていました。そのような影響は、信者の間にもあったのです。

 なお、今日、聖書が完成していて、私たちが知るべき神の御心は完全に示されています。しかし、それでも、教会での教えとして、人には肉があり御霊に満たされて歩むことは不可能であるというような教えがなされることがあるのです。信仰により、肉によらず、御霊によって歩むことを求めないし、歩まないのです。

3:3 あなたがたは、まだ肉の人だからです。あなたがたの間にはねたみや争いがあるのですから、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいることにならないでしょうか。

 彼らが固い食物としての肉によらない歩みの教えがまだ無理である理由を示しました。それは、彼らがまだ肉の人であるからです。彼らの間に妬みや争いがあることから明らかです。肉の人に対して、肉を捨てて、御霊によって歩むように教えることは、無理なのです。

 彼らは、人の生来の欲望に従って生きている肉の人なのです。それは、ただの人として歩んでいるのです。ただの人は、欲望に従って生きているのです。肉に属する人は、それと何が違うのでしょうか。変わりないのです。

3:4 ある人は「私はパウロにつく」と言い、別の人は「私はアポロに」と言っているのであれば、あなたがたは、ただの人ではありませんか。

 さらにその理由を示し、誰かにつくと言っていることがただの人としての行いであるからです。自分を誇るためにそうしているのです。

3:5 アポロとは何なのでしょう。パウロとは何なのでしょう。あなたがたが信じるために用いられた奉仕者であって、主がそれぞれに与えられたとおりのことをしたのです。

 彼らが尊ぶパウロやアポロは、神の奉仕者として彼らが御言葉を信じるために働いたに過ぎないのです。主の御心に従って行動しただけなのです。

 なお、パウロとアポロの名前を使っていますが、コリントでのことは、別の人のことです。後でパウロは、次の聖句のように、自分とアポロに「当てはめて」すなわち原語の意味は、「変えて」言って来たと言っているからです。

コリント第一

4:6 兄弟たち。私はあなたがたのために、私自身とアポロに当てはめて、以上のことを述べてきました。それは、私たちの例から、「書かれていることを越えない」ことをあなたがたが学ぶため、そして、一方にくみし、他方に反対して思い上がることのないようにするためです。

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3:6 私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。

3:7 ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。

 そして、大切なのは、成長させてくださる神であることを証ししました。パウロは、働き人として植えました。パウロの働きを通して信仰を持つに至ったのです。そして、アポロは、水を注ぎました。水は、御言葉の比喩です。成長させたのは、神です。

3:8 植える者と水を注ぐ者は一つとなって働き、それぞれ自分の労苦に応じて自分の報酬を受けるのです。

 そして、働き人に対する神からの評価があることを示しました。パウロとアポロの働きを例に、植える者と水を注ぐ者は、一つになって働くことを示しました。そして、それぞれの労苦に応じて報いを受けます。彼らは、神のために働くと言いながら、その働きを尊び誇っていました。そして、その誇りのために一つになって働くことをしていませんでした。コリントの人たちは、彼らの中の働き人を誇りました。そして、誰かにつくと言い、自分もその誉に与ろうとしました。しかし、人への評価は、神によるのです。

3:9 私たちは神のために働く同労者であり、あなたがたは神の畑、神の建物です。

 彼らの思い違いを正しています。彼らは、誰かにつくと言って、自らが優れた人につく者として自分をを誇ろうとしました。しかし、パウロやアポロの例のように、働き人は、神のために働く同労者です。誰が優れているというような観点で見るべきものではないのです。

 そして、コリントとの信者は、神の畑であり建物なのです。神のものであり、人のものでないのです。信者が自分を現すために誇るようなところではないのです。彼らは、畑として実を結ぶことが期待されています。建物として建て上げられることが期待されているのです。

3:10 私は、自分に与えられた神の恵みによって、賢い建築家のように土台を据えました。ほかの人がその上に家を建てるのです。しかし、どのように建てるかは、それぞれが注意しなければなりません。

 パウロは、建物を例に、自分の働きについて説明しました。彼は、建築家として土台を据えました。その時、賢い建築家のように据えたのです。賢い建築家は、その上に建て上げられる建物が立派に完成するように、しっかりとした土台を据えます。パウロは、その土台を据えたのです。

 そして、建物を建て上げるのは、コリントの教会の建築家です。彼らは、信者の成長のためにその働きをするのです。その際、どのように建てるか注意しなければなりません。

3:11 だれも、すでに据えられている土台以外の物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。

 すでに据えられている土台は、パウロが据えた土台のことで、イエス・キリストのことです。それ以外のものを据えることはできません。

3:12 だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、藁で家を建てると、

3:13 それぞれの働きは明らかになります。(なぜならば)「その日」がそれを明るみに出すのです。その日は火とともに現れ、この火が、それぞれの働きがどのようなものかを試すからです。

 それぞれの働きを通して、この土台の上にどのように価値ある建物を建てたかが明らかになる時がきます。その日と記されている時です。その時、各自の働きが火によって試されます。「試す」とは、評価されることです。火は、試すことの比喩です。それは、精錬や真価を試すことを意味しています。

 教会の価値について、金から藁まで列挙されています。

 金は、義の比喩です。

 銀は、贖いを表し、贖われた者としての歩み、すなわち、新しく生まれた者として聖霊によって歩むこと表しています。

 宝石は、神の栄光の比喩です。教会が神の栄光を現すことを表しています。

 木は、成長の比喩です。実を結ぶことも含意されています。

 これらは、価値あるものです。

 草は、羊の命の食べ物の比喩として示されることもありますが、価値のないものの比喩としても記されています。

イザヤ

40:7 主の息吹がその上に吹くと、草はしおれ、花は散る。まことに民は草だ。

40:8 草はしおれ、花は散る。しかし、私たちの神のことばは永遠に立つ。」

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 藁は、実がないのです。価値がありません。

 その日は、キリストが裁く時です。

コリント第一

4:1 人は私たちをキリストのしもべ、神の奥義の管理者と考えるべきです。

4:2 その場合、管理者に要求されることは、忠実だと認められることです。

4:3 しかし私にとって、あなたがたにさばかれたり、あるいは人間の法廷でさばかれたりすることは、非常に小さなことです。それどころか、私は自分で自分をさばくことさえしません。

4:4 私には、やましいことは少しもありませんが、だからといって、それで義と認められているわけではありません。私をさばく方は主です。

4:5 ですから、主が来られるまでは、何についても先走ってさばいてはいけません。主は、闇に隠れたことも明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのときに、神からそれぞれの人に称賛が与えられるのです。

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3:14 だれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。

 建物が火に晒され、燃えるものは焼かれます。価値あるものが残ります。火は、評価を表しています。

 建物が火に焼かれずに残れば、その建物は、価値あるものと認められたことを表します。建物が残り、価値あるものとして建てられたことは、その建てあげる働き人の評価につながります。人の働きの真価は、教会が価値あるものとて建てあげられるかどうかにかかっています。コリントの信者のように、自らの誇りだけを考えている働きでは、価値ある教会を建てることはできません。自分が人前にいかに評価されるかということを考えている働き人が、教会を健全に建てあげ、尊い価値ある信者を生み出すことはできません。神に自分を捧げ、神の御心だけを行う信者とすることはできないのです。教える者がそのように生きていないからです。

・「建物」→目的を持った成し遂げるべき働き。

3:15 だれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、その人自身は火の中をくぐるようにして助かります。

 建物が焼けることは、教会が価値あるものとして建て上げられなかったことを表してます。そのような建物を建てた人は、その働きが価値のないものと評価され、報いを受けることが出来ません。損害を受けるのです。働いたのに報いがないことは損害です。何もしないのであれば、報いがないとしても当然ですが、彼は、教会を建て上げるという大事業を行ったのに、只働きでは損害なのです。

 しかし、彼自身は、火の評価を受けますが救われます。彼自身の持つ信仰のゆえに救われます。

・「建物」→目的を持った成し遂げるべき働き。

3:16 あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられることを知らないのですか。

 そして、彼らが属している教会がいかに尊いものであるかを示しました。それが神の宮であることを示し、その尊さを示したのです。彼らの中に御霊が住んでおられるのです。知らないのですかと問い、彼らの振る舞いは、そのことを知らないかのようであることを示したのです。

3:17 もし、だれかが神の宮を壊すなら、神がその人を滅ぼされます。神の宮は聖なるものだからです。あなたがたは、その宮です。

 神の宮は、聖なるものです。神のものなのです。ですから神の宮としての教会を壊すのであれば、神がその人を滅ぼされます。彼らのしていることは、信者の集まりとしての教会を壊すことです。不一致が生じていることは、明確な証拠です。

3:18 だれも自分を欺いてはいけません。あなたがたの中に、自分はこの世で知恵のある者だと思う者がいたら、知恵のある者となるために愚かになりなさい。

3:19 なぜなら、この世の知恵は神の御前では愚かだからです。「神は知恵のある者を、彼ら自身の悪巧みによって捕らえる」と書かれており、

・「悪巧み」→あらゆる(悪の)働き。(比喩的に)狡猾な振る舞い。利己的な目的を達成するためには手段を選ばない不謹慎な狡猾さ。

3:20 また、「主は、知恵のある者の思い計ることがいかに空しいかを、知っておられる」とも書かれています。

 彼は、自分が知恵ある者と思ってる人に語りかけました。彼らこそは、教会において人の注目を集める人であり、彼につくという者がいるその人です。彼は、この世の知恵者と思っていました。しかし、パウロは、彼に自分を欺いてはいけないと言いました。聖書を引用して、この世の知恵は、神の前に空しいことを示しました。彼は、それを知っているはずです。それなのに、彼は自分のこの世の知恵を誇ることをしていました。それは、自分を欺くことです。

 それで、神の前に知恵のある者となるためには、この世の知恵に関しては、愚かになるように言いました。すでに持っている知恵がなくなって愚かになることはできませんが、この意味は、この世の知恵を用いないことあるいは誇らないことです。それを価値あるものとはしないことです。

 彼らは、自らを誇ろうとする悪巧みの中にあります。しかし、神は、その悪巧みによって捕らえます。彼が知恵を誇ることによって彼自身の愚かさが明らかになります。自分を誇る人の態度や話は、他の人には愚かであることが分かるのです。

 そして、この世の知恵によって思い計ることは、主の前には空しいのです。主は、よく分かっておられて正しく評価されます。

3:21 ですから、だれも人間を誇ってはいけません。すべては、あなたがたのものです。

 それで、誰も人間を誇ってはならないことを命じました。すべてがあなた方のものであると示し、自分だけが特別なものを持っているのではないことを示し、彼らを諭しました。

3:22 パウロであれ、アポロであれ、ケファであれ、また世界であれ、いのちであれ、死であれ、また現在のものであれ、未来のものであれ、すべてはあなたがたのもの、

3:23 あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものです。

 彼らにとって、働き人であれ、世界であれ、命であれ、死であれ、今のものも未来のものもすべてが彼らのものであることを示しました。それらは、神によって彼らに与えられているものです。彼らに対する神の祝福として与えられているのです。その上で、彼らはキリストのものであることを示しました。彼らは、自分のために生きるものではないのです。キリストのものとして、キリストに服従し、御心を行う者であるのです。そして、キリストは神のものであり、神のものとして、神に服従し、神の御心を行われたのです。そして、高い評価を受けました。そのキリストに倣うのです。